プレーパークの歴史
冒険遊び場(=プレーパーク)の始まりは、1943年、第二次世界大戦中のデンマーク。造園家ソーレンセン教授が「ガラクタのころがっている空き地や資材置き場で子どもたちが大喜びで遊んでいる」と造った「エンドラップ廃材遊び場」。
大戦直後、イギリスの造園家アレン卿夫人は、ロンドンの爆撃跡地に冒険遊び場をつくり、世論を喚起して、冒険遊び場運動を隆盛させました。
1950~70年代には、スウェーデン、スイス、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ、オーストラリアにも広がり、現在ヨーロッパ全体では、約1,000カ所の冒険遊び場があります。
日本でのとりくみ
日本では、1970年代半ばにアレン卿夫人の著書『都市の遊び場』が翻訳・紹介され、1979年、世田谷区の大村ご夫妻が呼びかけ人となって、地域住民と行政が協力して≪冒険遊び場≫『羽根木プレーパーク』が誕生。その後、日本全国に広がり、遊び場づくりを真剣に考え始めた大人達のコミュニケーションの輪は、様々な住み良い地域を自分たちで考える力と協働し、広まっています。1990年代後半からは飛躍的に増え、2010年4月現在、NPO法人日本冒険遊び場づくり協会に登録している団体だけでも244件あります。
東京都でも、子どもたちが健やかに育つために、区民が行政に働きかけ、恊働して、子どもたちが満足する外遊び・自分の責任で遊ぶ場を保障=プレーパークが増え、2014年4月現在都内23区では、目黒・中央・千代田・文京区を除いての19区において、実施又は実績が残されるようになりました。一方、プレーリーダーの不足・育成、運営母体の世代更代、時代の変遷に伴う質の向上等の諸問題を抱え、継続のための課題が多々あります。
これからの課題
日本のプレーパークの成り立ちの特徴は、「地域住民、とりわけ子育て中の親達が、公園の管理者である自治体や所有者に働きかけ,多くが運営母体としてNPO法人を立ち上げ、運営する」という点です。
それぞれの地域環境に合わせた自主性ある運営が行われる一方で、市民活動の歴史が浅く根付いていない日本での,プレーパークを始めた初代の親達の子どもたちが育った後の“次代への継続”には、行政のバックアップと共に、地元の企業を含む大人達の精神的・物的両面でのサポートが課題と言えるでしょう。